パオロ・ピニンファリーナ▲2024年4月にこの世を去ったイタリアの名門カロッツェリア「ピニンファリーナ」の当主、パオロ・ピニンファリーナ

スーパーカーという特殊なカテゴリーはビジネスモデルとして非常に面白く、それ故に車好きにとって興味深いエピソードが生まれやすい。しかし、あまりにも価格がスーパーなため、多くの人はそのビジネスのほんの一端しか知ることができない。今回は天才的デザイナーを懐刀に自動車デザインをリードし続けてきた名門カロッツェリア「ピニンファリーナ」の当主であったパオロ・ピニンファリーナの逝去が、ピニンファリーナとカロッツェリアという存在に与える意味を考える。
 

伝統を守り抜いた創業家当主の逝去

ピニンファリーナの当主であるパオロ・ピニンファリーナが亡くなった。享年65歳という若さであった。

ピニンファリーナと聞いて、フェラーリの優雅で美しいスタイリングを思い起こす車好きは多い。そして、アルド・ブロヴァローネ、レオナルド・フィオラヴァンティ、奥山清行といった多くの天才デザイナーを懐刀に、世界の自動車デザインをリードしてきたことは誰もが認めるところだ。そう、ピニンファリーナの存在は、スーパーカー界で今も光輝いているのだ。

パオロの死去は、単にイタリアン・カロッツェリアの当主が亡くなったという事実を超えた深い意味を持つと筆者は捉える。つまり、彼の死去が、カロッツェリアという名前までも過去のものにしてしまいはしないかと憂うのだ。もはや、カロッツェリアと正しく呼べる存在はもうピニンファリーナ以外にはないのだから。

ピニンファリーナは、“キング・オブ・カロッツェリア”として長きにわたってイタリアの自動車デザインを牽引してきたし、創業家が経営をつかさどる最後のカロッツェリアでもあった。しかし、その彼らですら、近年はその名前を維持することで精いっぱであった。インドの自動車メーカーであるマヒンドラの資本を入れてようやく体制を維持している、というのが現実であった。そんな厳しい現実の中で、ピニンファリーナ家の当主であるパオロは、創業家の名前=カロッツェリアの伝統を守り続けていた。

カロッツェリアの役割に関しては当連載でも語ってきたが、ピニンファリーナの特徴といえば、前述したように多く才能あるデザイナーを輩出したことであろう。

これは当たり前のことのように感じるかもしれないが、他のカロッツェリアはそうではなかった。例えば、カロッツエリア・ベルトーネではチーフデザイナーであるジョルジェット・ジウジアーロをメディアに向けて“名も無い一職人”と表現したものだから、ジウジアーロは絶望してベルトーネを辞してしまったというエピソードは有名だ。
 

パオロ・ピニンファリーナ▲フェラーリとの協業60周年を記念し2013年のジュネーブショーに登場した、パオロの父であるセルジオの名を冠したコンセプトカー。6台のみが市販化されている

パオロも厳しい運命に翻弄された。兄であるアンドレア・ピニンファリーナによるピニンファリーナの拡大戦略の後始末をする羽目になったのだ。

当時、ピニンファリーナは空洞実験室など設備投資にも積極的であり、自動車メーカーから特殊な製造工程を必要とする車(オープンカーの幌など)の製造受託事業にも力を入れていた。カロッツェリアで唯一、製造ラインを持つ会社となった。ところがイタリアの自動車生産量の低迷を受けて、今度はそれらの投資が重荷となってしまっていた。

そんな大変な時期、2008年に兄のアンドレアは交通事故で突然亡くなってしまったのだ。それまではアンドレアが自動車部門のマネジメントを行い、弟であるパオロが非自動車関連、つまりインダストリアルデザインなどに特化したピニンファリーナ・エクストラを担当するという図式であったのだが、アンドレアの死去にともなって、パオロが自動車事業を含むピニンファリーナのすべての事業を統括するCEOとなったのだ。

ファミリーを襲った不幸の中でも、パオロは真剣にカロッツェリアの未来を考えた。当時のインタビューで筆者に多くの夢を語ってくれたのを懐かしく思い出す。

「私たちのアイデンティティが何かを再考しました。そして、祖父バッティスタが築いたルーツに戻ることを決意しました。すなわちクリエイティビティに基づいた、私たちでしかできないものを提案します」と。

製造施設の売却とともに、原点回帰を目指したピニンファリーナ。ワンオフカーを受注したり、自動車メーカーとのデザイン、エンジニアリングコンサルタントといった根本的コラボレーションを強化する方針を打ち出したのもパオロであった。

「私たちのデザイン・アイデンティティは、数ある決まりに基づいています。なによりピニンファリーナ流の格式を常に尊重すること。これがデザインを創り上げる重要な要素となるのです。デコラティブすぎず、イノベーティブすぎず、レトロ風でもなく、上品さを醸し出すエレガントなデザインであること」

と、パオロは前向きであった。

ちなみに彼は1980年代に来日し、クライアントであったホンダの各部署を4週間に渡り視察したという。

「ホンダには、ジャストインタイム方式、カンバン方式など、イタリアにはないシステムがすでに導入されていたが、イタリアに戻り重役たちにレポートすると、それらはあまりに進みすぎており実現不可能だと、到底信じてもらえなかった」と笑って話してくれた。
 

パオロ・ピニンファリーナ▲2019年のジュネーブショーで発表された電動ハイパーカー「ピニンファリーナ バッティスタ」

これからのピニンファリーナはどうなっていくのか? という質問にパオロはこう答えてくれた。「スタイリングを手がける企業であり続けるでしょうが、自動車だけでなく、多様なジャンルの工業製品を手がけていくことになるでしょう。ピニンファリーナ家の流儀で」と。

その一方でパオロは、看板であったフェラーリ・ロードカーのデザイン担当というポジションを失うなど、衰退するカロッツェリアの現実と創業者ファミリーの当主という重みの中、厳しい毎日を送っていた……。

パオロを失った今、彼を継ぐピニンファリーナ家の存在は今のところ見えない。他のカロッツェリア同様、ピニンファリーナも実態のない単なる記号となってしまうのであろうか? スーパーカーファンとしては、ピニンファリーナ家が経営をつかさどるカロッツェリアの伝統が途切れないことを祈るばかりだ。
 

パオロ・ピニンファリーナ▲創業者である祖父の名を冠した「バッティスタ」の運転席でほほえむパオロ・ピニンファリーナ
ピニンファリーナ▲ピニンファリーナのエンブレム
文=越湖信一、写真=ピニンファリーナ
越湖信一

自動車ジャーナリスト

越湖信一

年間の大半をイタリアで過ごす自動車ジャーナリスト。モデナ、トリノの多くの自動車関係者と深いつながりを持つ。マセラティ・クラブ・オブ・ジャパンの代表を務め、現在は会長職に。著書に「フェラーリ・ランボルギーニ・マセラティ 伝説を生み出すブランディング」「Maserati Complete Guide Ⅱ」などがある。