熱田 護


車で我々に夢を提供してくれている様々なスペシャリストたち。連載「スペシャリストのTea Time」は、そんなスペシャリストたちの休憩中に、一緒にお茶をしながらお話を伺うゆるふわ企画。

今回は、F1をはじめとするモータースポーツや市販車の撮影を行う、フォトグラファーの熱田 護さんとの“Tea Time”。
 

熱田 護

語り

熱田 護

あつた・まもる/1963年三重県鈴鹿市出身。東京工芸大学短期大学部写真技術科卒業。1985年ヴェガインターナショナル入社。坪内隆直氏に師事し、2輪世界GPを転戦。1991年よりフリーランスとしてF1をはじめとするモータースポーツや市販車の撮影を行う。特にF1に関しては、1992年から全戦取材を続けている唯一の日本人カメラマンである。

近所の鈴鹿サーキットで2輪レースを撮っていた

生まれが三重県の鈴鹿なんですが、高校生の頃から写真を撮るのが好きでした。近所の鈴鹿サーキットで、よく2輪レースを撮っていましたよ。

大学生になって全国のサーキットで撮影しているとき、2輪レーサーの斎藤仁さんと出会い、その縁で『プレイライダー』という雑誌編集部でアルバイトをすることになりました。

当時2輪の世界GPは、スター選手も多くすごく盛り上がっていたんですよ。だから「ヨーロッパで世界GPを撮りたい」という気持ちが高まり、まだ学生でしたが後先考えずに行っちゃった(笑)。

すると「日本の若造がGPに来ているらしい」という噂が、僕の師匠で2輪レースカメラマンの第一人者である、坪内隆直さんに伝わり、「うちの雑誌で働かないか」と声をかけてもらったんです。

それで『グランプリイラストレイテッド』のカメラマンとして、ヨーロッパのGPを回る生活が始まりました。
 

熱田 護

シューマッハに怒られ「ベリー・ソーリィ」

F1を撮り始めたのは、80年代後半。その頃の人気はすごくて、当時は専門誌だけで20誌以上ありましたね。それまで2輪レース専門だったので、F1はアイルトン・セナとかアラン・プロストの名前ぐらいしか知りませんでした。

でも撮り始めたらどんどんセナに惹かれ、いつしかセナを追いかけるようになっていた。彼の格好よさ、雰囲気、佇まいは特別でした。

しかし、1994年、サンマリノGPの事故でセナが亡くなってしまったんです。レース直前、マシンのコックピットでスタートを待つセナを間近で撮っていたら目が合って、微かに笑いかけてくれた。

その直後、レース3周目で事故が起きてしまいました。ショックは大きく「自分の写真の中心にあったものがなくなってしまった」という喪失感を、2年ほど引きずっていましたしていましたね。

僕ね、一度シューマッハに本気で怒られたことがあるんです。あるレースのウオームアップ走行のとき、マシンを乗り替えようとしていた彼を撮ろうと近づいたら、カメラのストラップがマシンに引っ掛かり取れなくなっちゃった。

「ヤバイ! どうしよう」と慌てていたら、彼がマシンから降りて来て、僕の背中をドンドンドン!と。結構な力で叩かれました(笑)。

カメラマンとしてあり得ない失敗に、さすがに落ち込みましたね。次のレースで、シューマッハに「アイ・アム・ベリー・ソーリィ」と謝ったら、僕の肩を抱いて「なんでお前はいつもあんなに近くで撮るんだ?」と、優しく諭してくれました。あれがシューマッハ選手との一番の思い出ですね。
 

熱田 護▲熱田氏の作品は、エンジン音やタイヤの焼けるニオイまでもが感じられるほど臨場感にあふれている

実はマイカーを持っていない今欲しい車は……

F1を追いかけ30年、コロナでヨーロッパに行けなかった2020年を除き、毎年全戦を現地で撮り続けています。

昨年はホンダがチャンピオンを獲得し、僕にとっても最高に嬉しいシーズンでしたが、コロナ禍で全戦回るのは本当にしんどかった。

シーズン中はほぼ日本に戻れず、海外生活が何ヵ月も続きました。おかげで日本に帰ってきたときのゴハンの美味しいこと(笑)。安くて、旨くて、バリエーション豊富で……食事に関しては日本が一番だと断言できます。

最近一番楽しかったことは、とある新型スポーツカーのカタログ撮影をさせてもらったことだね。

カタログの写真は制約の多い中で撮影することが多いのですが、この撮影は僕のアイデアや希望をしっかり取り入れてくれて、「本当に撮りたいものを撮れた」と、達成感が大きかった。

まだ発売前なのでどの車かは教えられませんが、楽しみにしていてください。実は僕、このところずっと海外に居たこともあって、マイカーを持っていないのですが、そろそろ欲しいと思っているんです。もちろん自分でカタログ撮影した車をね。
 

文/河西啓介、写真/尾形和美
※情報誌カーセンサー 2022年6月号(2022年4月20日発売)の記事「スペシャリストのTea Time」をWEB用に再構成して掲載しています
河西啓介

インタビュアー

河西啓介

1967年生まれ。自動車やバイク雑誌の編集長を務めたのち、現在も編集/ライターとして多くの媒体に携わっている。また、「モーターライフスタイリスト」としてラジオやテレビ、イベントなどで活躍。アラフィフの男たちが「武道館ライブを目指す」という目標を掲げ結成されたバンド「ROAD to BUDOKAN」のボーカルを担当。